紙をめぐる話|紙について話そう。 No.30
菊地信義
装幀者
水戸部 功
 装幀家

師弟関係にある装幀家の対談です。
存在の危機が叫ばれる時代にあって、
むしろ本は面白くなっていくのではないか。
おふたりの言葉に触れていくうちに、
そんな期待感が積み重なっていきます。

2020年3月16日

初出:PAPER'S No.61 2020 夏号

菊地信義・水戸部 功

菊地 これまで2万冊あまりの装幀を手掛けてきましたが、基本的にはいつも紙と文字が勝負どころだと考えてきました。そんな僕の仕事を最もつぶさに観察して自分の仕事に生かしているのが、水戸部くんだと思います。生かすといっても、僕が紙の材質やタイポグラフィを微細に使い分けるのに対して、水戸部くんが選ぶのはコート紙と墨一色だけ。菊地信義の要素を徹底して引き算することから新しい装幀を生み出そうとしているのだと思います。その姿勢がいいですよね。僕の形を盗んできた人はたくさんいましたが、精神を盗んだのは水戸部くんだけでしょう。
水戸部 恐縮です……。おっしゃる通り、僕は菊地さんのデザインの表層ではなくて、制約を逆手にとって何か新しいことを試みるというような、装幀に対するコンセプチュアルな態度を受け継ぎたいと思っています。かつては同じような紙と書体を使って似たような装幀をつくってしまい、「これじゃあ菊地さんじゃないか」と葛藤を繰り返した時期もありました。なんとかしてそこから抜け出すために、真逆のことをしてみたらどうか、表情や情緒をすべて排除してみたらどうかと試みていくうちに、少しずつ自分の装幀ができてきたように思います。10年ほど前に手掛けた『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』は、そんな試みが初めて形になったという意味で、僕にとって象徴的な一冊です。
菊地 あの本でつかみましたよね。僕の文学性や叙情性をすっかりご破算にできた。あそこから水戸部くんが始まったと言ってもいいくらいだと思います。

 

風合いに導かれて本を開く。

水戸部 『これからの「正義」の話をしよう』は、アマゾンのウェブサイトでも文字が読めるようにと、とにかくタイトルは大きく、紙は白くして、明快さを貫きました。一方で菊地さんの装幀には、ただ白いという紙はありませんよね。生成りだったり、青白かったり、かつて開発に携わられたOKカイゼルのように繊維が散りばめられていたり。遠目では平坦な白い紙に見えても、近づくと豊かな表情があって。
菊地 本の装幀において、僕がいちばん大切にしているのは風合いです。それはエンボスや混ぜ物のような紙そのものの性質ではなくて、紙とデザインが一体となってつくりあげる総体としての印象です。本はポスターと違って興味を持ったら手に取るものですから、遠くから見たときと触れたときの感覚に差が生まれます。その二重性のなかに興味への入り口が開かれる。なんだかつるつるした本があるな、あれ、でも持ってみると不思議な手触りがあるぞ、これはいったい何の本なんだ?そんな風に、読者が本を読んでみたくなる印象の道筋をつけていく。僕が携わってきた詩歌のような分野は、一方的に情報を与えられるものではなくて、自分なりの読み解きによって読者自身が世界を創造していくような作品が多いですから、10人いれば10人とも異なる印象を持っていい。そういう意味で、僕の仕事は風合いによって謎をつくること、「なんだろう?」を引き出すことだと言えます。
水戸部 僕が主に手掛けているビジネス書の場合はまったく反対で、全員に同じ方向の情報を示す必要があります。そのためには白い紙なら白色度が強いものを、黒い文字なら黒が強いものをまっすぐに選ぶ。そのくらい徹底しないとコンセプトが伝わりきらないんです。そこで手触りのあるような紙を使うと、何か違うメッセージが混じり込んでしまう。
菊地 その一方で、水戸部くんが担当した『君が異端だった頃』の装幀は、非常に風合いのある重層的な表現ですよね。中身のテキストはやんちゃなんだけど、表紙との落差がいい効果をもたらしています。
水戸部 ありがとうございます。作者である島田雅彦さんの本は賑やかなものが多かったのですが、そのイメージを覆したいという依頼だったので、知的な方向を目指しました。カバーに様々な加工を施したのは、帯とのセットではなくて、カバー単体で重層性を出せないかと考えたからです。紙はNTラシャの無垢を選びました。風合いの豊かさによって箔との差をつけて、カバーに奥行きを生み出すためです。実はこの本をつくるにあたっては、これから装幀家として生き残っていくために、僕自身の表現としても違いを出したいという個人的なテーマもありました。

 

本づくりは運動。産業じゃない。

水戸部 菊地さんは、たとえば『オシリス、石ノ神』のような稀少性の高い本を手掛けながら、『サラダ記念日』のような何百万部も発行される本の仕事もされてきましたよね。ものすごく広い振れ幅のなかで、その時々の最適解をフラットに出している。それこそが装幀家の職能だと思いつつ、僕は最近、何かひとつの方向に尖っていないと装幀家として埋もれてしまうのではないかというジレンマを抱えてもいて。
菊地 『オシリス、石ノ神』には当時はまだ珍しかった包装紙を使っています。活版の3色刷りで、タイトルは抜き。出版界が元気だったから実現できた装幀で、文芸というジャンルがかつてないほど追い込まれている今、同じことができるかどうかはわかりません。ただ、危機の反動として、書店の平台で本当に存在感が際立つ本をつくろうと、装幀に力を入れ始めた出版社も増えてきている。僕はその波にのってやろうと思っています。アマゾンで本を買うことが当たり前のようになった時代に、わざわざ書店に足を運びたくなるような本をつくってみせようと。
水戸部 たしかにそんな機運を感じることがあります。雑誌のような媒体はどんどん紙が軽くなり持ち運びやすくなっている反面、それってデジタルで代用されやすいということでもありますから、本はその反対を目指さなければいけない。『君が異端だった頃』では、物質性を高めることでデジタルに対抗しようと考えましたが、今後はますます芸術性の高い特別な本が多くなって、中途半端なものは消えていくのではないでしょうか。
菊地 この危機的な状況のなかでも、本当に上質な純文学の作品をつくりたいという作家や、それを支えたいと思っている出版社の方は確実にいるんですよ。給料返上でもいいからこの本を出したいと言うような編集者さえいますから。僕はそんな志のある人たちと一緒に戦っていきたい。紙屋さんも巻き込んでね。それは僕がフリーになった理由のひとつでもあります。たとえ装幀料が少ない仕事でも心置きなく受けられる体制をつくって、いい本をつくるための力になりたかった。本づくりって運動ですから。産業じゃなくて。あと何年、実作者でいられるかわかりませんが、本当にやるべき仕事に絞り込んで、これまで以上に丁寧に、手触りのようなものを大切にした装幀を届けていくつもりです。誰のためでもなく、本のために。80歳までに少なくともあと5冊はつくりたいですね。
水戸部 菊地さんはもっとやると思います。5冊どころか、もう一冊作品集ができるのではないでしょうか。

 

装幀は、本への愛情競争。

菊地 僕は外弟子という制度をとっていましてね。弟子になりたいという人にはまず仕事を見せてもらって、その人の本に対する気持ちを見ます。それが強ければ、通いの弟子というかたちで付き合い始めます。水戸部くんが初めて会いに来てくれたときも、いくつか仕事を持ってきてくれましたね。ぜんぶ駄目でしたが。
水戸部 本当にその通りで、本とも言えないような代物ばかりでした。今から18年くらい前のことです。
菊地 だけど本に対する誰よりも強い思いは感じました。やっぱりそれはわかるんですよ、僕も誰よりも本が好きなので。そうでないとこの仕事はできない。装幀って結局、本に対する愛情競争ですから。自分よりも本を愛する人がいたら敵とさえ思ってしまうくらいで。
水戸部 菊地さんとは今でも定期的に会って色んなお話をさせていただいていますが、いつも緊張して固まっています。悩みを相談しても、大抵は内容を見透かされてしまいますし。
菊地 幸運にも僕は40年間、本の仕事だけで生きてこられた人間ですから、同じように本に惚れ込んでいる人の思いは痛いくらいにわかるんですね。水戸部くんは、装幀家というよりもコンテンポラリーアートに近い視点で本を見ているところがありますね。日本の近現代の装幀そのものを見つめてきた僕に対して、もう少し遠くから装幀を眺めている。水戸部くんの時代には、おそらく本は本ではなくなって、もっとアートに近いものになっていくでしょう。僕自身もグラフィックデザインのなかにおけるブックデザインの可能性を信じて、アートとのぎりぎりの狭間で自分の装幀をつくってきたつもりですが、それよりもさらに先までいけるはずです。僕はあくまでテキストを源に装幀を構築してきましたが、水戸部くんはテキストから離れていくかもしれない。それは僕にはできないことで。
水戸部 たしかに僕は本をプリミティブなメディアアートとして捉えているところがありますが、菊地さんこそそれを体現してきた存在だと思って見てきました。菊地さんがすごいのは、すべてを商業の流れなかで実現させてきたことです。何千何万という部数の本をアートとして書店に届けてきた。僕も同じようなことを成し遂げたいと考えていますが、なかなか難しい。自分ならではのやり方を模索しているところで、テキストに寄り添いすぎず、自分の表現だけでつくってみるというのもその試みのひとつです。
菊地 危機的なまでに言葉が弱くなっている時代ですから、テキストから離れるのは自然な流れだと思います。水戸部くんは本を、僕という存在に映して獲得しようとしているところがありますよね。それに協力したいですし、すべてを晒してもいいとさえ思っています。水戸部くんのためというより、本という存在のためにね。

 

そのひとの指先に届ける。

水戸部 去年公開された菊地さんのドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』のポスターは、ふたりの共作のようなかたちで制作させていただきました。「ポスターも本になりうるだろう」という考え方から出発して、ポスターに紙を貼っています。もちろんそれでは巻いて郵送することができないので、折りたたむことにしました。折り目も含めてポスターのビジュアルになるだろうと。紙はもちろんOKカイゼルです。
菊地 『つつんで、ひらいて』というタイトルの映画ですから、「つつむ」というコンセプトをポスターでも体現しようと思ったんですね。それと同時に、曲がってしまう、折れてしまう、切れてしまうというような、紙ならではのフラジャイルな性質を手で触れられるかたちのまま残したかった。それって僕の装幀において最も大事なことですから。装幀の役割は、デザイナーの美学をひけらかすのはなくて、紙それ自体の価値を人の手に届けることです。手に届くというのが本当に重要で、指先から伝わる紙の触感が、ある種の催眠効果のようなものを促します。紙に触れているうちにページをめくる感覚が徐々に徐々に薄らいでいって、いつの間にか眠ってしまったかのように、読んでいる本の世界に入り込んでいく。もちろんそこまで感じない人もいますよ。でも100人のうち2、3人でも紙の手触りに発見や驚きを感じてくれれば、それで充分なんです。その人が発信者になってくれますから。本という媒体は、たとえ1万部刷られたものであっても、本質的にはひとりのために存在します。文学を想像上の娯楽として楽しむ一般的な読者に対して、現実の本質的な目的として読む人のことを「精読者」と呼びますが、次の本の文化を担っていくのはそんな人たちなんですね。
水戸部 ひらかれたり、とじられたり、そういうひとつひとつの行為そのものが本なのだと思います。物としては紙が束ねられているだけなのに、こんなにも深い印象を残してくれる。本は本当に不思議です。このポスターをつくってあらためて、装幀にはまだまだ発明できることがたくさんあると感じました。
菊地 できると思いますよ。危機的な時代であればあるほど、アナーキーな表現が出てくるものでしょう。ロックンロールが進化してきたようにね。自分の装幀もそうありたいと思っています。「こんちくしょう」でやってきましたから、僕は。

 

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