紙をめぐる話|紙について話そう。 No.38
伊藤亜紗
美学者
吉田勝信
 採集者・デザイナー・プリンター

山に分け入る、キノコを食べる、
人と話す、地域に足を運ぶ。
自分の身体で触れてみることで、
感じてみることで、
浮かび上がってくる世界の摂理や
複雑性があります。
おふたりの言葉を読み進めていくうちに、
見えなかったものが
見えてくるような対談です。

2025年4月14日

初出:PAPER'S No.69 2025 冬号

伊藤亜紗・吉田勝信

吉田 僕は日頃から山に入ってキノコや樹皮、お花なんかを採っています。植物の中には色を蓄えているものがあって、草木染めの要領で色を取り出して染料にして、そこから顔料にするようなことをしています。『ゴミうんち展』という展覧会で循環をテーマにつくった作品では、山で採ってきたキノコから色素を抜き出してインクをつくり、印刷して紙に定着させ、その印刷で 発生したヤレ紙をキノコに食べさせて、そこで生えてきたキノコを自分で食べてみるという過程を展示や書籍にまとめました。循環は概念としてよく聞く言葉ですが、それが現実として目の前で起こったときにどのような変化があるのかを観察してみたいと思って。今日持ってきたこのキノコも、竹尾のヤレ紙を食べさせて育てたものです。
伊藤 キノコはパルプを食べるんですか?
吉田 パルプに含まれるセルロースですね。自然界では木に含まれていて、それを木材腐朽菌という種類のキノコが分解して土や有機物になります。
伊藤 ちょっと嗅いでみていいですか? すごくいい匂い。中毒性のある匂いですね。
吉田 ほんとですか?うれしい。乳酸っぽいというか、クリーミーというか。食べてみると、山で採るものよりも味が濃くて、えぐい。色んなものが強くなっている感じがして不思議でしたね。

 

じんわりと見えてくる関係性。

伊藤 私は2020年から大学で利他の研究をしていて、利他を人の心の問題ではなくシステムの問題として捉えたいと考えています。利他の例題として川の上流と下流に住む人たちの関係がよく挙げられるのですが、上流に住む人が川を汚すと下流に影響しますよね。だから下流の人たちが上流の人たちに農産物を分けるなどしてうまく共存する。そうやって利害関係が対立する可能性のある人たちがどうやって共有資源を共同管理していくか、みたいなところで利他を考えたくて。その時にいつも山が出てくるんですね。かつての里山的な暮らしは循環の流れに深く埋め込まれていて、考えるべき利他が多かったはずです。でも現代では蛇口をひねれば水が出てくるので、上流の人を怒らせないように、なんて思わないですよね。
吉田 そもそも人が見えないですよね。
伊藤 目に見える範囲しか自分に関係がないような感覚になりがちですが、実際には複雑に関係しているじゃないですか。そんな関係性のネットワークを拡張していきたい。私も東京育ちなので山を見る目がないのですが、最近関わらせていただいている地域では、林業の人とか、ダムを管理している人とか、みんな全然違う視点で山を見ています。NTTとの共同研究で「山のふたを開けるプロジェクト」という企画を始めたところなのですが、色んな視点から山を見つめて、それを都会の人たちにもわかるように翻訳して山への解像度が高まれば、少しずつ視野が広がるんじゃないかなって。
吉田 たとえば山に入って目の前に一本の胡桃の木があったら、採集する理由がいくつか出てきますよね。食べるため、染めるため、木材にするため、籠の材料にするため。それらの理由は草木染めの本や樹皮図鑑など別々の分類で別々の本に登場しますが、山に行くと一本の木としてまとまっていますよね。そんなつながりが明らかになりそうでワクワクします。
伊藤 そうですよね。サイエンスの応用がテクノロジーになるって思われがちですが、歴史的には逆ですよね。ここに一本の木が生えています。これを使って家をつくりたい。その時に「この樹皮使えそうだな」と思って使っていくうちに性質が見えてきてサイエンスができてくる。テクノロジーが始まりだから使い方が無数に分かれていって、それをもう一度統合するのがサイエ ンス。しかも実際にはきれいに分類できるものでもなくて。
吉田 実際にはグチャっとしていますよね。身体の中に知識が入るとその境目が少し見えてくる。山に行くとそんな感覚がありますね。

 

産業とは別の角度で。

伊藤 色素も工学的な見方ですよね。要は人間にとって使い道があるっていう。それって植物にとっても色素として有用なんですかね。
吉田 必要な栄養を蓄える過程で色素になっているだけなんじゃないかと。
伊藤 吉田さんはそれを染め物や印刷に使ったりするわけですよね。
吉田 そうですね。母親が草木染めを生業にしているので「何かに応用できないかな」っていう単純な動機が始まりでした。草木染めは水の中に色素が分散しているのですが、色素と水を分けて、色の部分を固形物にできれば顔料になって使い道が広がるだろうなと。しばらく技術開発をしていたらできるようになったので、それを人力や機械で細かく粉砕して亜麻仁油を混ぜてみたら、17世紀頃のインクになった。当時のインクのレシピが文献に残っていて、読んでみると生態学的な技術でつくっているのがわかり、おもしろそうだと思ったんです。当時はほとんど人力でつくっていたので、自然界のものと自分ひとりで再現できちゃうんですよね。
伊藤 それって何をしていることになるんですかね。インクの再発明なのか、産業を手元に小さく持つ、みたいなことなのか。
吉田 現代って、産業がデザインした消費者としてしか個人が社会に関われないんですよね。印刷だったら入稿をしなくちゃいけないとか。でも山から採ってきたものを練ってインクにして自分の印刷機で試し刷りしてみたりすると「本当に刷れるかな」とハラハラしながら印刷機の周りをグルグル歩くような状況が発生する。そうなると消費者ではなく、スケールがグーっと縮小して「機械と私」のコミュニケーションという話になります。そこをスタート地点にすると製造やその先にある産業に対して別の角度からジワジワと入れそうな感覚があって、それは悪くないなと。
伊藤 今のお話をちょっと強引に自分の研究につなげると、私は普段、障害を持っている人たちに話を聞くことを続けているんですね。そうすると産業や社会の大多数のためにつくられた仕組みがうまくはまらない状況が見えてきて、それを何とかするために、仕方がないことも含めて創造性を引き出さざるを得なくなってきます。たとえば私自身にも吃音があって、今、同じく吃音のあるデザイナーとフォントをつくろうとしています。というのも、どもっている音って文字化できないんです。そもそも文字って発声の運動をアーティキュレーションして音の差異を生み出している。同じもののあいだに差異をつくりだし、差異のあるものを同じにもする。たとえば「ペンギン」の最初の「ン」と後の「ン」の音って本当は違うはずなんです。発声は行きやすい道を通るので、最初の「ン」は次の「ギ」を言いやすい「ン」になる。「ン」は閉空間をつくって鼻から空気を出せば発声できるので、口の方に息が行かなければ、舌でも喉でも どこを閉じてもいいんですよ。でもそれらは明らかに違う形をしているから音としても違うはずなのに、日本語の体系ではざっくり「ン」なんですよね。こうした発声運動のアーティキュレーションのメカニズムから外れていくノイズが吃音で、たとえば「つくえ」っていう時に「つつつつつくえ」って言ってしまうのは、「つ」から「く」へ行く道を探せない状態なんですね。つまり文字に対してあふれちゃっている。その吃音の状態を文字にするのは基本的には不可能なんですけど、やってみようと。それは汎用性の高い社会のツールに対してもう一度向き合うことで、自分の発声の運動と文字を考え直す場にもなります。ただ、たぶん吃音フォ ントをつくってもすごく読みにくいし、読んだ人がどもったような感覚になってしまうと思うのだけど、でもなんか、そういうことが大切じゃないかと思っているんですよね。

 

消えながら、続いている技。

伊藤 さっきの「産業を手元に小さく持つ」という話で思い出したのが、以前、佐賀県の松隈という地域を訪れて小さな発電用のダムを見た時のことです。ダムと聞くとでっかいイメージがありますが、コンテナに入るくらいにちっちゃなダムで。元々は農業用の水路があって、その手入れが大変だったので葉っぱや砂を除去できる仕組みとダムをセットにして、それで発電をして地域の収入にしているんです。
吉田 すごい。頭がいいですね。
伊藤 そこで使っている技術って、日本に大きなダムができる以前からあったようなんです。でもその技術は失われてしまった。ただその技術を日本が発展途上国に教えてきた痕跡があって、松隈でも、そうした地域から逆輸入する形で教わってつくったそうです。で、収入が生まれたからお年寄りたちは日々を楽しそうに過ごしている。男の料理教室で酒のつまみをつくるとか(笑)。
吉田 いいですね(笑)。それで思い出したのが、山形の南の方にある中山間地の村の聞き書きのようなことをした時のことです。そこでは獅子舞のような祭りがあって、村人たちはそれを「最近始めたんだ」と言っている。実は100年くらいのブランクがあって、村社に残っていた道具と記録を活用して復元したそうです。ただ、舞の動きもお囃子の形態もわからないので、川向こうの集落のお祭りを参考にしたんだと。それって今のダムの技術とか17世紀のインクの技術の話によく似ていますよね。
伊藤 東京の八丈島が好きでよく行くんですけど、自然もいいけど文化もすごく面白くて。元々島流しの場所だったので昔は罪人がいっぱいいたんですね。罪人といっても初期は政治犯が多くて士農工商に耐えられなくて一揆を起こしたような、今風にいうとリベラルな人たちが多かったようです。そんな八丈島の踊りは全国の盆踊りのメドレーなんですよ。全国からやってきた罪人が自分の故郷の踊りを伝えている。ただ、時が流れるに連れて変形して独自の踊りになっていったので、実は「京都の踊りだ」と言われている踊りが、元の京都にはなかったりするそうです。伝承の仕方がゆるいんですよね。インクの話でいうと、吉田さんは17世紀の人たちと対話しているような感覚はありますか?
吉田 対話までの感覚はなくて、あくまで向き合っているのは道具と組成。ただ、単位がガロンだったり、挿絵の男が筋骨隆々だったりして、現代の環境や肉体感覚との差異は感じますね。
伊藤 18世紀にヨーロッパで百科全書ブームが起こったんですけど、たとえばパリでつくられたものの後半はすべて職人の技術紹介なんです。パンやチーズはこうつくる、みたいな。当時は革命の時代で、中産階級にとっての知識が社会を変える力なんだっていう誇りがあったんですね。それまでは工房の中での閉じた伝承だったのが、絵や図版で技を伝えるようになった。さらにそれが19世紀になると数値化されていきます。技は職人の身体の中にあって、それは取り出せないものだったのが、数値化によって正確に再現できるようになった。その背景には植民地の広がりによって本国から離れた場所で、たとえば病気になった時に対処するような必要が出てきたことがあったと思いますが、そんなふうに時代によって技術の伝承方法が変わっていく様相を知るのは興味深いことですよね。
吉田 日本でも初期の頃の料理本はエッセイみたいだったという話を聞いたことがあって、数値は掲載されていなかったようです。今でも山形のおばあちゃんの家とかに行くとよくわかるんですけど、目の前にあるぐい呑みとかで適当に味噌を入れたりしていて。
伊藤 おもしろいですね。私は滝沢カレンさんの料理本が好きなのですが、それも数値が出てこないんです。唐揚げをつくるときの醤油の量がグラムじゃなくて肉の気持ちの表現だったりして。「僕のところによく来たね、くらいに入れる」みたいな(笑)。

 

クズたちの声に耳を澄ませる。

伊藤 キノコを食べた話をされていましたが、料理はよくされるんですか?
吉田 そうですね、採ってきたものは加工しないと腐っていくので。ものを採集するってことは、同時に加工が迫ってくることでもあるんですよね。保存するなら干すか冷凍か。ただ、保存しても毎年採るので冷凍庫があふれかえっちゃう。すぐに加工して食べるか、友達にあげることが多いですね。
伊藤 最近採ってきたものでおいしかったのは?
吉田 コブシの花ですね。甘くてスパイシーなすごくいい香り。蕾なんかは中国だと乾燥させてお茶にして、鼻の通りを良くする漢方薬になります。それを採ってきてお花をパラパラっとサラダにかけて、オイルと塩で食べる。お花の中心は取り除くんですけど、オシベをバターに混ぜて香りを付けたり。細かくて紫色なので見た目もかわいい。これは今季の大発見でしたね。毎年採るものでも使うものと捨てるものに分かれますが、どうしても捨てる方に目が向いてしまって、「どうにかしたい」というストレスを常に抱えています(笑)。
伊藤 藤原辰史さんがごみとクズは違うと言っていて、ごみはサイクルの外に出すことで、クズはサイクルの中にいると。ごみがなければ全部クズになる。
吉田 たしかに。ぜんぶクズにしてとっておく。潰しを効かせるのが理想ですよね。ところで少し話が変わるかもしれませんが、伊藤さんの専門である美学の領域では、支持体はどんなふうに捉えるんですか?キャンパスとか、紙とか。絵として描かれている以外の部分。
伊藤 芸術を突き詰めると、支持体を否定することだと思うんですね。ただの布が風景や空間になったり、石が人物になったりするわけなので。自分の授業でも、ガムテープや段ボールを渡して「これを否定せよ」という課題を出しています。すると、ガムテープを料理して角煮にしてくる学生がいたりします(笑)。醤油と酒で煮てきて、とてもいい匂いがして、それってもうガムテープではなくて、メディウム、支持体になっている。魔法をかけて否定するというか。だからこそ、その物にもう一度目を向けるという行為ともいえるのですが。
吉田 おもしろいですね。この前、紙をつくってみたんです。絵画作品の依頼がきて、僕はアーティストではなくデザイナーだからどうしたらいいかわからなくて悩んでしまい、「とりあえず紙をつくるか」と(笑)。で、僕が最終的につくったのは絵画との関係性。絵画とは何か、ということは本には書いてあるけど読んでも血肉にはならないですよね。理論が身体に落ちてこない。だから額があったり支持体があったりする絵画の様式を、自分でぜんぶやってみるかと。山に入って草を採り、それで紙をつくる。そうしているうちに繊維のある草と無い草とか、人里の草と山の草の違いとか、色んなことが見えてくる。たとえば和紙の原料といえばコウゾですよね。「ソ」が名前の最後に付くものは繊維を蓄えている古い素材だということも職人さんに教わりました。他にも、アオソとか、アカソとか、長めの繊維を蓄えている草があって、それを紡いで糸や紙にしていた時代があったと。そしてその関係から、布の産地の周辺には紙の産地が発生するという話も聞ききました。布をつくると繊維クズの端材が出ますよね。和紙には長い繊維より短い繊維の方がいいので、その端材を集めてつくっていたそうです。長い繊維を紙にしようとするとわざわざ細かくしなきゃいけないけど、うまく関係ができているんですね。それも和紙工房の方が教えてくれたことです。
伊藤 布と紙は違うものだと思っていたけど、意外と近いんですね。しかも端材が次のサイクルに続いている。自分でつくってみることがそのままリサーチや研究につながっていくんですね。
吉田 最初の方で草木染めの話をしましたが、色素と水が分離される現象は昔から起こっていて、それは草木染めにおいては失敗だったんです。でもそれって顔料化につながるのでは?と考えて体系化していったら何かが生まれたという。草木染めのクズの道を選んだら別な世界が見えてきた。
伊藤 近代人はそういうことを避けてきたわけですよね。スーパーで野菜を買って、ご飯をつくって食べて、うんちはトイレに流すという生活に移行した。そういう歴史を経てきた中で、またクズたちの要求に応えるという生活に戻るというのは難しいけれど、吉田さんは、ただ戻るというのとは違う第三の道をたどっているのかなと思いました。
吉田 ありがとうございます。たしかにそういう問題意識は持っていて、川の上流と下流の人たちの関係性だったり、今の水道の起源をどうやって想像するかという話と似ていて、それを僕なりの環境で実装したいと思って、クズたちの声を聞くというか、クズたちに常に向き合っていますね。

 

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