紙をめぐる話|紙について話そう。 No.15
原 研哉
グラフィックデザイナー
森田真生
 独立研究者

竹尾ペーパーショウの開催に伴う
特別編として、その書籍に収録される対談
「紙と数学」をWebサイトと
合わせて全文紹介します。
異なる分野の視点が交差するとき、
そこに見えてくる紙の本質とは?

初出:PAPER'S No.46 2014 春号
※内容は初出時のまま掲載しています

原 研哉・森田真生

「繊細の精神」と「幾何学の精神」

なぜ数学がご専門の森田さんと話をさせていただくかという理由は、まず森田さんのものの感じ方に期待してのことです。以前ある場所で紙の話をした際に、たまたま聴いておられた森田さんが非常に感応してくださって、まさか数学をやる人が紙の話にそれほど興味を持たれるとは想像していなかったので、とても驚いた(笑)。そこでものを作る人とは違う方に紙の話を聴いていただくのも面白いかもしれないと思ったんです。
今回は、10年ぶりに竹尾ペーパーショウの企画・構成をやらせていただいているのですが、元々自分をデザイナーとして意識し始めたのはペーパーショウが始まりでした。紙に触れ、対話しながら自覚が芽生えてきたというところがある。それで、久しぶりにディレクションを担当するなら、自分なりに考えてきた紙の本質をしっかり表現してみたいと考えました。テーマは「SUBTLE」。「かすかな、ほんのわずかな、名状しがたい」というような意味ですが、紙そのものが繊細なのではなくて、紙が目覚めさせてくれる人間の感覚こそ繊細で緻密なものであると。今日はそういう話を森田さんとしてみたいと思っています。
森田 初めて「SUBTLE」というタイトルを聞いた時、すぐに思い出したのがパスカルという数学者が書いた『パンセ』の一説です。そこで彼は人間には「繊細の精神」と「幾何学の精神」があると言っています。幾何学の精神は、手に取れるようなはっきりとした原理から出発して厳密な推論によって思考する。ただし、そういう明確な原理がない場合には、途方に暮れてしまう。一方、繊細の精神というのは逆に、明確な原理に関心を注ぐ辛抱強さは持たないけれど、少数の原理には回収できないような繊細な問題に大しては非常に優秀さを発揮する。パスカルはそのどちらに偏るのでもなく、両方を持ち合わせようとした人です。僕は昔から原さんの本を読んでいるのですが、幾何学の精神を大前提としながら繊細の精神というものにも眼を向けようとする原さんの姿勢に非常に興味を持っていたんですね。しかもそれは自分を独立研究者に導いてくれた岡潔の言う「計算と論理だけでなく情緒を」に通じる部分もあると思っていて。そんなこともあって「SUBTLE」というタイトルを見た瞬間から、僕もどこかでお話を伺いたいと思っていたんです。
繊細の精神と幾何学的の精神ですか。その両方を持つことで人間は、振り返ればこれまでたくさんのものを生み出してきたんでしょうね。たとえば古代ローマ時代の「建築」という概念。列柱やドームなどの構造そして様式など、人間自身が環境を変容して人間のために素晴らしい環境を形成してきた。今のローマに行っても往年のローマは想像できませんが、古代ローマ時代の配置図などを見ると、とてつもない精度で都市が構想されているのがわかります。建築というものが人間の精神を高揚させる、それはまさに幾何学的な精神の発露だと思います。その一方で、建築に匹敵するものとして「紙」があったのではないか。大げさかもしれませんし、紙なんてどこにでもあるじゃないかと言う人もいるかもしれませんが、紙が生み出されてきた過程には人間の繊細な精神が確実に発露していて、岡潔さんが言う「情緒」のようなものが結露したものとしてこの白くて四角い物質があるのではないかと思うんです。
森田 面白いですね。パスカルの「無限の空間の永遠の沈黙に私は恐怖する」という言葉を思い出しました。無限の空間が永遠に沈黙する、つまり時空という概念のことですが、その時パスカルはイームズの『パワーズ・オブ・テン』のようなことを言い出したんです。宇宙はものすごく広くて、地球より大きな太陽系があって、太陽系より大きな銀河があって、その銀河もさらに外から見れば小さな点でしかなくてという風にどんどんマクロな世界を描いた一方で、一番小さなものとしてダニを考えてみようと。ダニの中には関節があって、関節の中には液があって、液の中には蒸気があって、その蒸気の中にまたもう一つの宇宙があることを想起せよ。なんてことを言うんです。要はものすごく巨大な無限とものすごい小さな虚無、そのどちらにも宇宙があって、人間はその真ん中で漂っていると。だから無限に小さなものを知ることは、無限に大きなものを知ることに通じるとパスカルは言うんですね。それっていくつかの原理から出発して無限に大きなものを目指す幾何学の精神と、無限に小さなものに耳を澄まそうとする繊細な精神の関係にもつながる。建築と紙の関係もどこかそれに通じるところがあるかもしれません。
人間は「私」という意識を持つことで非常に不安定な存在になったと思うんです。「生」だけの存在で宇宙に漂うなら仕組みそのものに入り込んでいるので安定的ですが、そこに「私」という「中心」が生まれることで無限の狭間を漂う不安な特異点が発生してしまった。そんな不安定な「私」の集積がせめぎ合う中で建築やプロダクツ、あるいは法律が編み出されたりして社会がかたちづくられてきた。紙という存在も人間が精神の安定をはかるために作り出した宇宙を漂う「筏」のようなものだと思うんです。その筏の上に乗ってきた人間たちが刻んできた歴史を、僕らはもう一度じっくりと見直すべきだと思う。だから紙を「印刷媒体」として批評したり、手触りのような物質的なテクスチャーの問題として扱うのは根本的に間違っている気がするんです。不安定な人間が宇宙を漂う中で手にした紙という媒質は、印刷媒体などという殺伐とした言葉では決してとらえられない特別な情緒を担うものなのではないか。そんな観点であらためて一枚の紙を眺めてみると、全然違うイマジネーションが湧き起こってくるはずなんです。そこから宇宙や世界を同時に見出だせるような気持ちになるというか。
森田 印刷媒体ではない紙といえば、こんな話があります。ある時、リチャード・ファインマンという物理学者の計算式が書かれたノートを見た歴史家が「これは思考の痕跡ですね」と言ったんです。するとファインマンは「これは痕跡じゃない、思考の一部だ」と答えた。つまり物理学者や数学者にとって紙はコミュニケーションのための媒体である以前に、脳みそから漏れ出した思考を自分の外側で続けるための身体の延長のようなものなんです。
数学者ってみんな紙で計算するんですか。パソコンは使わない?
森田 パソコンを使う人ももちろんいますが、圧倒的多数はいまも紙を使っています。学会の発表も黒板を使う人が多いです。数学って身体的に再生しないと出てこないところがあるので、プロジェクターだと発表している本人もわからなくなったりする(笑)。身体を動かして書く方が計算しやすいし、見ている側も書くのを追うことで理解できる。僕の指もペンダコだらけですが、数学者って紙と向き合う時間が長いんですよ。

 

それは意外ですね。たしかに身体を持った人間が自分を委ねる対象物として紙は見出されたと思うんですね。だから人間が思考を表出させていく過程において、紙との接触は非常に重要なものだった。それは単に文字を書き記すことではなくて、頭の中から、するするとまっさらな状態のものに、何かを取り出して置いていくというイマジネーションとして現れたわけです。だからまず「白い」ことが大切だった。紙の本質は「白さ」と「張り」だと僕は言っているのですが、白って自然の中にはあまりないんですよ。大抵はアースカラーと呼ばれるベージュ系。土や樹木の色もよく見るとそうです。その特別な白い枚葉に取り返しのつかない痕跡を残し続けるイメージは、人間にとって相当にセンセーショナルだったはずです。それはローマ人にとっての建築と同じように、人類史の中でもかなり大きな目覚めやイメージの屹立を促したと言ってもいいくらいの。
森田 今のような紙が生まれる前、紀元前の数学者たちは砂の上で計算していたんですね。きれいに平らにならされた砂の上に書きながら考えて、あとでパピルスに整理して書く。だから文字に興奮がない。でもこれが17~18世紀、ライプニッツの頃になると文字が踊るんです。紆余曲折が文字にそのまま溢れている。紙って普通は活版印刷革命の文脈で語られますが、紙と向き合い、リアルの思考をそこに委ね、しかもそれが消せないというスリルに始めて出会った時の創造性の契機って、想像以上に大きかったのかもしれません。
砂の上の思考も面白いですね。紙に向き合って書く時は少なからず「本番」という感じがしますよね。『徒然草』に「諸矢をたばさみて的に向かふ」つまり二本の弓矢を持ってはいけないと諫める一節があるんです。二本目があることによって一本目への集中が鈍ると。紙が僕らに突きつけてくるのもこれと同じではないでしょうか。やり直しのきかない一回性の思考を紙の上にきちっと発露しなさいという。
森田 紙に書くという行為で大切なのは、書いたものを見ることで考えが変わったり、紙と対話したりすることにあると思うんです。ただの記録媒体ではなくて、自分の内側を一旦出して、自分の声を外から聞くようなプロセス。それはすごく大きな変化だったという気がしますね。時々紙を使わずに計算することがありますが、その時にも僕の頭の中には紙らしきものが存在します。そのくらい紙は身体化されているんですね。それから、数学に記号がなかった頃は「ここに線を引くでしょ」なんて言いながら図を一緒に見るのが計算だったんですね。つまり計算って元々、他者とのコミュニケーションだったんです。その対話的なプロセスを一人でできるようにしたのが記号、そして紙です。方程式を成立させている「=」も大きな発明だったのです。紙によって他者とのそれと同じように自分とコミュニケートできるようになり、それから数学は非常に進歩しました。人間が思考を進める助けとして紙の力が大きく役立ったわけです。
記号がないって今では考えられませんね。たしかに「=」ってすごい発明。
森田 そうですね、大発明です。

数学とは知っていたことをあらためて知ること

数学って夥しい数式を見ると一見取っ付きにくいですけど、記号群が意味している事柄をかみくだいて考えるとその根本はデザインと近いかもしれないですね。環境を知恵として合理的に解釈していくプロセスにおいては。
森田 数字も最初は木や石に刻みを入れて書いたんですね。でも人間の認知能力は限られているので、たとえば縦棒を7本とか書くとパッと見てもわからないわけです。そこで縦棒を刻む代わりに7と書いた。人間の認知限界に寄り添ったデザインですね。
十進法のように10でくくるのもデザインですよね。二進法でも四進法でもいいのに十進法が人気なのはなぜなのですか。指が10本だから?
森田 基本的にはそうです。何進法を選ぶかという際の一つの考え方として、いかに大きな数字を効率的に表せるかがあります。たとえば二進法だと0と1の二つの記号だけで済むのでエコですが、桁がすぐに上がるので、桁数が増えちゃうという意味で不便。百進法にすれば桁数は上がりませんが、100個も記号が必要だからエコじゃない。実は数学的に言って、一番バランスがいいのは三進法です。たとえば電話オペレーターに三択が多いのも、それが一番効率的に割り振れるからなんですね。もう一つの考え方は、約数が多いかどうか。かけ算の九九って、二の段と五の段が簡単じゃないですか。その理由は2と5が10の約数だから。そういう意味では十二進法は二、三、四、六の段が約数になって計算がスムーズですが、問題は数える時に指が10本しかないこと。その辻褄が合わなくて結果的に残ったのが十進法だったんです。だからもし指が12本だったら数学が今よりもやりやすかったかもしれません(笑)。
そうなんですね(笑)。その文脈でいうと、環境はやはり身体との関係で解釈されてきていると思うんですね。石器時代には既に、まん丸の穴の開いたドーナツのような形をした石器があるのですが、技術のない時代にどうしてそんなものができたかというと、柔らかい石に対してより固い石を回転させ続けてくり抜くと、自然に完璧な円が得られるわけです。つまりこれは数学ではなく手が発見した円ということです。紙が四角い理由も同じです。四角という形を人間が数学的に発見したのではなくて、身体を持つ人間がある活動を続けているうちに生み出された結果のようなものだと思うんです。紙が「発明された」とよく言いますが、そうではなくて左右対称の形をしていて両手が自由になる人間が生きていくうちに「発生してしまった」のではないか。四角という人間が宿命的に持つ生成の痕跡が紙に発現して、しかもそれが白かった。そんな風にとらえた方が紙の根拠がわかりやすくなりますよね。
森田 数学も発生したものだと言えます。4という数字の形も、円や三角が生まれたのも、人間が生きた中で自然と……「発生」ってすごくいい言葉ですね。みんな発明か発見と言いますけど、発生なんですね。
できてしまった。気がつくとそこに紙が蔓延してしまっていた。温泉にある硫黄のように、人間の文化にこびりつくものとしてそこにある。だからそもそも紙って、新しいメディアに取って代わられるようなものではないはずなんです。岡潔さんが数学は自然数の1を定義できないって仰ってますね。しかし1は誰も否定できないし、1が確かにあるとみんなが納得できるから、それでいいのかもしれないという「共感のようなもの」が、1を共有している背景になっていると。だから紙は発明ではなくてそこに「発生」してしまったものとしてあると。
森田 計算や証明も、本当は単に記号を操作するものではなくて、心をわかったという状態にもっていくための安定的な自然過程のことだと思うんです。そのために数学ができたはずで、それは原さんの仰ることに非常に近いですね。
人間は環境を変容させながらここまできました。食べるには箸かスプーンかフォークか。フォークの歯は2本か3本か……。そういう過程を経て箸が定着し、フォークは4本歯になり、スプーンで何の疑問もなくカレーを食べている。環境をコントロールしようとする暗黙の意欲がデザインなんですね。デザイン知というのは、たくさんの人間の知恵が1本のスプーンに集約されていて、そこに普遍的なものがあるとみんなが共感した瞬間に成立するんですよ。そういうことに気づいた時に世界は変わって見え始めるわけですが、それも数学と共通している気がしますね。
森田
ただ数学が逆説的なのは、明晰な理解を得ようとしているのに、やればやるほどわからなくなるってことです。直線とは何かと悩んで発狂したりする人もいるくらいですから。だから数学って、直線という当たり前のものがわからなくなっていく過程でもあるし、最初からわかっていた直線をあらためてわかっていく過程でもある。そもそも「マスマティックス」には「数の学問」という意味はありません。「マテーマタ」というギリシャ語が語源で「最初から知っていたことをあらためて知る」という意味なんです。知らないことを知るのではなくて。
それは面白い。デザインもそうですよ。何かについてわからせるのではなくて、いかに知らなかったかに気づかせることが大事なんです。僕は勝手にInformationではなくEx-formationであるとか言っていますけど……。デザインの本質は、目を奪うヴィジュアルやきれいな形を作ることではなく、普通の人々が既に身体や感覚を通して暗黙裏に了解していることをあらためて意識の俎上に上げて、わかり直すことなんです。そういう目覚めを生み出すきっかけを作るためのヴィジュアライゼーションがデザインなんです。今回の竹尾ペーパーショウもそうで、最終的に目指しているのは「紙に目覚める」こと。人間が既に知っているはずの紙を、あらためて知り直すことなんですね。